バレンタイン昔話 / 夏川秋近と皐月蛍
🕑 Added 2024-02-28 14:34:16 +0000 UTC
唇に押しつける。
反応はない。さらに指に力をこめると、んん、と口をゆがめたがまだ起きない。おもしろくなってぐりぐりと揺りうごかすと、端からじわりと溶けだして、男はようやく目覚めた。
「なん、んぶ」
開いた口に転がりこむ。慌てた様子で地面に肘突き起きあがり、吐きだそうとした唇を手のひらで覆う。
「んんっ、ンー!!」
「どう? うまい?」
「んっ、……?」
取り乱した表情が、舌に溶ける甘さにじわりじわりと緩んでいく。その喉がこくりと嚥下するのを見てから手をはなした。
「なっ、なに」
「なにって、わかってるくせに」
思春期めいたとぼけ方を笑うと、目の前の男は険のある表情でこちらを睨んだ。二月も半ば。眩しい陽があたるといえどまだ白い風の吹く屋上。彼の視線が隣に腰を下ろすおれの手元におちる。手のひらに収まるほどの小さな箱。ふたの開いたそこに並ぶハート型のブラウンは、
「同情する」
右端の一つだけが欠けていた。
「それを、お前にやったやつに。無関係の男の口にはいるとはおもってなかっただろうな」
「ちがうちがう。これはおれが買ったやつ」
「は?」
「妬いてもらったとこ申し訳ないけど」
「妬いてねえよ、つーか、なんで」
「自分で食べようとおもって」
「ハート型のチョコを?」
「ハート型のチョコを」
まんなかの一つを摘まみあげて、
「去年もらった中で、美味いのがあってさ。あんま甘くなくて、ナッツの味がするやつ。似たようなのを見つけたから買ってみたけど」
また彼の口の中に放りこむ。
「たぶん違うよな。どう?」
「知るか。自分で食えよ」
「素直に口開くのがかわいくて、つい」
今さら、下唇をきゅっと噛む。そういうところがかわいかった。
「というか本人に聞きゃいいだろ」
「知らない子だったんだ。他校の。帰り道に渡されて」
下世話なうわさほど、尾ひれ背びれがついてよく広がる。校内含め、今年はないんだろうなと思っていたから、机のなかで指先にこつんと当たるものを見つけたときはすこし驚いた。
「去年おまえ、でかい紙袋もってただろ。見せびらかすみたいにして」
鞄の中にしまいこんだ。たぶん、おれには甘すぎるチョコレートだった。
「見せびらかしてはないけど、紙袋は持ってた。というか、もらった。でも持って帰れたのは二つだけ」
言葉遊びかと首をひねる彼に「机の横にぶら下げるのもとおもってロッカーに置いておいたら、放課後なくなってた」と答えると絶句した。
「紙袋の代わりに、小さなチョコがひとつだけ置いてあったけど」
「そいつだろ」
「なのに匿名だったんだよな。いじらしいのか、大胆なのか、狡猾なのかよくわからないよな」
「狡猾のレベルをも超えてんだろ」
「それと、帰り道に渡されたので合計ふたつ」
ふっと記憶に横入りしてくる。帰り際の下駄箱で、ほいと投げ渡された。軽率に、軽薄に、チカちゃん。ホワイトデー楽しみにしてるから、なんて笑って。いざ渡し返すと、うーん今はしょっぱい気分だからと端にやられて、そのあとどうなったかは知らない。
「そういえば、あげるのははじめてかもな」
赤みがかった髪が揺れる。その目がおれの笑みと手元を往復してから、カウントに入れんな、と釘を刺す。
「受け取ったつもりはない」
「ホワイトデーはからだでいいよ」
「最低すぎるだろ」
「今返してくれてもいいけど」
くちびるを重ねあわせ、体温に溶けた味を舌でかすめ取る。やっぱり違う。そもそもハート型じゃなかった気がする。
「んっ、っ、」
眉を寄せながらも、肩に触れる手の力は弱々しい。背に添えた手のひらをそろりと下方へと滑らそうとしたとき、
「盛りあがってるところわるいけど、サッカー部の子が探してたよ」
秋近、と頭上に被さった影が言い落とす。
一瞬の油断。その隙にするりと抜けだす脱兎が一匹かけぬけて、大きな音を立てて屋上の扉を閉めた。
呆然とするおれのそばに蛍がそばにしゃがみこむ。
「サッカー部のあの、後輩の子。なんか怒ってたみたいだけど」
なんかしたの、と聞かれて、むしろなにもしていないことが一因だと察せられた。
することにも、しないことにも意味が生まれる。
「厄介なイベントだよな、これも」
「なに言ってんの」
「蛍。これやるから、もうすこし時間つけておいてくれないか」
甘いものすきだろ、と差しだすチョコレート。蛍は目を細めて、
「好きだけど。今はしょっぱい気分だから」
と答えて小箱を端にやる、でなく手に取ってにっと笑った。
「けど、貰えるものはもらってあげる。これ秋近が買ったやつでしょ? レアじゃん」
あ。お返しはないからね、と言いながら、意外においしいじゃんとはしゃぐ蛍を前に、来年。男子校では希薄なイベントになるだろうけれど、世間が期待するような意味もないけれど、こいつにはなにかしら渡してやろうとひっそり思った。