第1章 第十一話
🕑 Added 2025-05-27 13:09:02 +0000 UTC
【それでも世界は回っている -OZ-】
第1章「目覚めの草原」
第11話「名前を忘れる風の中で」
草が、音もなく揺れていた。
風は、一定のリズムで吹いているわけじゃなかった。
あるときは前から、またあるときは真上から──
まるで意志を持っているかのように、ぼくの周りを回っていた。
「……やっぱり、変だ」
カイルのくれた地図を手に、ぼくは草原を進んでいた。
方角は間違っていないはず。太陽の位置も、そこまで狂っていない。
けれど、何かがおかしい。
一歩一歩、草を踏みしめるたびに、空気が変わる。
それは気温でも、湿度でもない。
“何かに見られている”ような感覚。
「………………」
口に出そうとして、ふと立ち止まった。
今、自分の名前を言おうとしたのに、言葉が出なかった。
ド……ロ……
音が舌の上で止まる。喉を通らない。
頭の中には確かに浮かんでいるのに、発音しようとすると、風が音を奪っていく。
「…………ッ!」
思わず喉を押さえた。
さっきまで当たり前のように呼んでいた名前が、舌から滑り落ちるように消えていく。
風は吹き続けていた。
小さく、しかし確実に、ぼくの輪郭を削るように。
──ここは、“風の領域”。
カイルが言っていた。
この世界には、“風に名前を奪われる場所”がある、と。
ぼくは今、その場所に踏み込んでしまったんだ。
* * *
夕日が落ちるのが早い。
いや、まだそんな時間じゃなかったはずなのに。
空が、ほんの数分で朱から群青へ、そして濃い藍へと染まっていく。
まるで“時間”そのものが、風に溶けているかのように。
「やばい……帰れないかも……」
引き返そうにも、来た道が見えない。
足跡は風に消され、草は一様に揺れている。
そのとき。
──カラ……ン……
金属のような、小さな音が耳の奥で鳴った。
次の瞬間、足元がぐらりと揺れる。
風ではない。地面の揺れでもない。
“何かがこの世界の向こう側から手を伸ばしてきた”ような感覚。
ぼくの体が、一歩も動けなくなった。
「や……め、て……っ」
声にならない悲鳴。
目の前の空気が歪んでいく。
それは“見えないものの影”だった。
形があるのに、境界がわからない。
風の中に、確かに“存在”だけが浮かんでいた。
──きみは、“鍵”。
聞こえた気がした。
けれど、誰の声かはわからない。風が囁いたようでもあったし、自分の心が反響しただけのようでもあった。
──きみの中に、“なにか”が眠ってる。
ぼくの手が、勝手に上がった。
その指先から、何かが生まれるような感覚。
光ではない。火でもない。
けれど、“世界にひとつだけ穴をあける”ような、見えない力が空気を割っていく。
風が、裂けた。
ほんの一瞬、風の流れが崩れ、見えなかった地平線が一瞬だけ露わになった。
風は吠えるように唸り、反発するように渦を巻いたが、
ぼくの中から放たれたその“なにか”の力に抗えなかった。
──気がついたときには、ぼくは膝をついて、草の中にいた。
息が荒くて、指先がしびれている。
胸の奥がひどく熱かった。けれど、火傷のような痛みではなかった。
「……今の、なに……?」
誰もいないはずの草原に、ぼくの声だけが残った。
* * *
その夜。
ぼくは草むらの小さな窪みに体を縮めて眠った。
何が起きたのかは、わからない。
けれど、“風”に飲まれかけたとき、ぼくの中でなにかが“目を覚ました”。
それは、魔法なのかもしれない。
けれど、ぼくはそう呼びたくなかった。
もっと、“自分の知らない何か”が、
この世界で目を覚ましてしまった──そんな気がした。
そしてそれはきっと、ぼくだけじゃなく、
この世界そのものにも影響を与えていく。
“風”の謎。
名前の喪失。
地図にない道。
そのすべてが、今夜、ほんの少しだけつながった気がした。