第1章 第十三話
🕑 Added 2025-05-27 13:17:52 +0000 UTC
【それでも世界は回っている -OZ-】
第1章「目覚めの草原」
第13話「狸の道連れ、ぬくもりの風」
「はぁ……ほんまに、よう晴れとるわ」
草原の丘の上で、狸獣人のラセルが大きく息を吐いた。
太陽はすでに空の真ん中に近く、風は柔らかく、空気は温かい。
「なぁドロシーちゃん、ちょいと休もか。お昼にちょうどええ時間やし」
「うん、ありがとう」
二人で座った丘の上からは、これから進む草原の道が遠くまで見渡せた。
昨日までのぼくなら、きっとその広さに飲まれそうになっていた。
でも、今は隣にラセルがいる。
それだけで、少しだけ心が強くなれた気がしていた。
「おっしゃ、ちょっと待ってな。ええもんあるんや」
ラセルがごそごそと背中の荷物を探り出し、ふくふくの手で取り出したのは──
ふっくらと丸まったおにぎりのような食べ物と、紐で巻かれた葉っぱの包み。
「保存食やけどな、うちの地元で“狸だんご”言うて評判のヤツやねん。中にちょっと甘い豆入っとって、疲れとるときにちょうどええんよ」
「わあ……いただきます!」
ひとくち頬張ると、もちもちした生地の中からほくっと甘い風味が広がった。
ほんのりあたたかい。気のせいかもしれないけど、心までぽかぽかする味だった。
「……美味しい。すっごく」
「そりゃよかった。君みたいな細い子は、いっぱい食べなあかん。草原の風、思ったより体力奪うさかいなぁ」
ラセルは笑って、自分の分をゆっくりと食べ始めた。
口に運ぶ手の所作も丁寧で、食べるたびにふうっと鼻から息を吐くその姿が、妙に色っぽかった。
──あ、また変なこと思ってる。
ぼくは思わず視線を逸らした。
ラセルの隣にいると、時々胸が変なふうにくすぐったくなる。
あの丸いお腹も、ちょっと垂れた目元も、手の厚みも──
全部、やさしさでできているように見えて。
気づくと、ラセルがこちらを見ていた。
「……どないしたん? 顔、赤いで?」
「えっ!? な、なんでもないっ……!」
「そかそか。ほな、食べ終わったらちょいと昼寝でもするか? 腹いっぱいなると、よう眠くなるやろ」
「……あの、ラセルって、どうして旅してるの?」
気恥ずかしさをごまかすように尋ねたぼくに、ラセルは少しだけ目を細めた。
「……まぁ、旅っちゅうても、急ぎの用事があるわけやないんよ。せやけど、探しとるもんは、ある」
「……探し物?」
「うん。昔な、うちの村の灯守りやった親方が言うててん。“風に消えた灯は、どこかに落ちとる”って」
「……灯?」
「せや。風に吹かれて、地図から消えた村、記憶から消えた場所──そういうとこに、ぽつんと残っとる灯が、あるんやないかって。
ほんで、それが全部集まったとき、きっと“答え”に近づけるって、そう言うてた」
「答えって……何の?」
ラセルは少しだけ黙って、草の向こうを見つめた。
「……たぶん、“この世界がなぜこんなふうになったんか”っちゅうことやろな」
──この世界。
名前が消え、記憶が曖昧になり、風がすべてをさらっていく。
ぼくはまだ、この世界の仕組みを何ひとつ知らない。
でも、ラセルの言葉には、確かに“知っている者”の重さがあった。
「うちの親方な、数年前に風の門を越えようとして、名前が消えてもうた。
でも、記憶のどっかに、“風の裏には何かある”っちゅう確信があったみたいやね」
「……それで、ラセルはその灯を探して……?」
「うん。わいはのんびり屋やけどな、約束は守りたいんよ。
あの人が信じとったもんを、自分の目で確かめたいんや」
やわらかな笑顔の奥に、ひとつの強い芯があった。
その瞬間、ぼくの胸の奥で、何かがちくりと鳴った。
──好きだな、この人。
まだ“恋”とか、そんなのじゃない。
でも、確かにぼくは、この大きな背中に安心している。
惹かれている。
そのとき、ふいに強めの風が吹いた。
「あっ──!」
ぼくが手にしていた地図がひらりと宙に舞い上がる。
「わっ、待ってっ!」
慌てて追いかけたぼくは、足をもつれさせて転びかけた。
その瞬間、ラセルの腕が伸び、ぼくの体をしっかりと受け止めた。
「おっとっと……あぶなっかしいなぁ、まったく。怪我ないか?」
「……う、うん、大丈夫……」
ふわっと、ラセルの胸に顔が埋まる。
──柔らかい。
そして、温かい。
なんだろう、この落ち着く匂い……。
「……君、ちょっと痩せすぎやな。ちゃんと食べなあかんよ」
ラセルが、ぼくの頭をぽんぽんと撫でた。
その手のひらは、大きくて、やさしくて──
胸の奥が、じんわり熱くなる。
「……ありがとう、ラセル」
「礼なんていらんよ。一緒に旅してる仲やろ?」
その言葉が、うれしかった。
ぼくは、ラセルと一緒にいる。
この人の隣を、歩いてる。
ただそれだけで、草原の風がやさしく感じた。
陽が傾き、空に茜が差し始めたころ、ぼくらは草の陰になった窪地に小さな焚き火をつくった。
ラセルは慣れた手つきで火打石を打ち、乾いた小枝に火を移していく。
ぼくは、彼の横顔をちらちらと盗み見ながら、なんとなく胸の奥が落ち着かなくなっていた。
「……焚き火って、いいよね。あったかくて」
「うん、そうやなぁ。火は、“灯”でもあるさかいな。心ん中の風、しずめてくれるんよ」
「……風の中で、ラセルは名前を守れたの?」
その問いに、ラセルはしばらく薪を見つめたまま、黙っていた。
「──実を言うとな。昔、一度だけ、忘れたことがあったんや」
「え……?」
「風の門に、仲間と挑んだときや。“あの先に道がある”って、誰かが言うたから、信じて進んだんよ。けど、門をくぐった瞬間──仲間の顔が思い出せんようになった」
「……でも、戻ってこれたんだよね」
「うん。灯をひとつ、拾ってな。それが“記憶を繋ぎ止める光”やった」
ラセルは腰の袋から、手のひらに乗るくらいの小さな瓶を取り出した。
中には青白い光が静かにゆらめいている。
「これが、“風に抗う灯”。……不思議なもんやけど、これがあると、気持ちがぶれへんのや」
「……きれい……」
瓶の光に照らされたラセルの輪郭が、なぜかとてもあたたかく見えた。
しばらく、火の音だけが草原に溶けた。
* * *
夜が深まり、風が冷たくなってきたころ、ラセルが毛布をふたつ重ねて敷いてくれた。
「ひとつはわい用やけど、君が寒かったら一緒に使ってもええよ。うち、毛深いしなぁ」
「……あの、ラセル」
「ん?」
「……ありがとう。ラセルがいてくれて、ほんとによかった」
「そうかぁ……そう言うてくれるのは、ちょっと……くすぐったいなぁ」
「──ドロシーちゃん」
「な、なに?」
「わい、今日の君の顔、すごくよかったと思うで。風と向き合って、ちゃんと生きようとしとる。……その顔、忘れたらあかんよ」
「…………」
「どんなに名前が薄れても、“今日の君の顔”だけは、わいの中に残る思うわ」
ラセルの手が、そっとぼくの頭を撫でた。
ぼくの心が、かすかに震えた。
「おやすみ、ドロシーちゃん。夢見、よくな」
その声に見守られながら、ぼくは毛布の中でそっと目を閉じた。
胸の奥で、あの不思議な“なにか”が、またひとつ灯った気がした。
──それが、どんな名前を持つのかは、まだわからない。
でも、今夜ぼくは、ラセルの隣で安心して眠れる。
そのことだけが、今のぼくにとって、何よりも大切だった。