第1部 第十五話
🕑 Added 2025-05-27 13:31:24 +0000 UTC
【それでも世界は回っている -OZ-】
第1章「目覚めの草原」
第15話「夢、風の向こうに」
──風が、止んでいた。
土は静かに呼吸し、崩れかけた祠の空気はどこか神聖で、ひとときの静けさを与えていた。
その中心に、ドロシーはいた。
ぐったりとした身体は、ラセルの腕にすっぽりと収まっていた。
毛並みの柔らかい首筋から、火種の微かな光がまだ残っている。
「……君は、ほんまにすごいなぁ……」
ラセルはそっと息をついて、ドロシーの額のあたり──なだらかな毛並みの境を、指先でそっと撫でた。
イタチ獣人である彼に前髪はない。けれど、顔の輪郭から耳にかけての流れるような毛並みは、
とても繊細で、触れるだけで心が落ち着いた。
「よう頑張ったな……」
そのまま耳の根元へと指を移し、やさしく円を描くように撫でながら、
ふわりと額へ唇を寄せた。
──魔力の暴走を鎮めた後には、願いを込めてキスを贈る。
それは土の一族に伝わる古いおまじない。
「おやすみ、ドロシーちゃん。夢のなかでは、穏やかであれ──」
そう言いながら、ラセルはそっとその肩を抱き寄せた。
* * *
ドロシーは夢を見ていた。
空が高く、草が鮮やかで、まるで絵本の中にいるような不思議な景色。
どこからか、祝いの音が聞こえた。
丸い家々の間で、小さな獣人たちが楽しげに踊っている。
「ようこそ、ドロシー」
声が聞こえて振り返ると、そこには──ラセルに似た姿の男がいた。
けれど彼は農夫ではなく、長く光るローブをまとい、手には杖を携えた魔導師の姿。
「ここは“マンチキン”の国。君は、風と共にここへ来たんだよ」
「……風に……巻き込まれて……」
「そう。竜巻に家ごとさらわれて、ここへ落ちてきた」
彼はやさしく微笑みながら、こう続けた。
「君が落ちた場所は、“悪しき魔導師”が支配していた地だった。風を操り、名を奪い、心を曇らせていた存在。
だが君が現れ、彼は──倒された」
その時、ドロシーの手のひらに、何かが置かれた。
「これは……?」
銀糸で編まれた、繊細な手袋。
指先までぴったりとした作りで、手に取るとわずかに魔力の気配が感じられる。
「《銀の手袋》。君を守るもの。風に名を奪われぬよう、魂の輪郭を守る装具だ」
ラセルに似た魔導師は、静かに語った。
「家へ帰るには、“風の中心”へ向かわねばならない。
そこに君の帰路が、あるかもしれない」
──“帰る”。
その響きが胸を突いた。
けれど、それよりも先に。
「……トト……」
口を突いて出たその名前。
思い出した、小さな命。
自分と一緒に風にさらわれた、大切な存在。
「……探さないと。トトを、探さないと……!」
ラセルの姿をした魔導師は頷いた。
「そう。それが、君の“旅の始まり”だ。
風に負けず、自分を忘れず、君の願いを叶えるために──」
言いかけた言葉が、風に溶けていく。
空が揺れ、音が遠ざかり、視界が淡く白に包まれる。
「ねぇ……あなたは……誰だったっけ……?」
夢がほどけていく。
けれど、最後の瞬間──
ラセルの姿をした魔導師が、そっとドロシーの額にキスを落とした。
その温もりだけが、確かに残った。
* * *
「……トト……」
ぼんやりと呟いたその声に、風が一筋、草を揺らす。
ドロシーは、目を覚ました。
「……!」
胸が高鳴る。風の匂い。土の感触。
隣に、あたたかい重さ。
見上げると、ラセルがこちらを覗き込んでいた。
「……目ぇ覚めたか。おかえり、ドロシーちゃん」
その声が、現実を確かにしてくれた。
「……ありがとう、ラセル……ぼく……夢を見てた。すごく……不思議な夢……」
「そっか。なら、ええ夢やったんやな」
「うん……でも、もう……内容はあんまり思い出せない。
でも、はっきりしてることがある──」
ドロシーは、胸に手を当てた。
火種のぬくもりがまだそこにある。
「……トトを、探さないと。絶対に、見つける」
「せやな。それが、君の旅のはじまりや」
そう言って、ラセルは手を差し出した。
──けれど。
「……っ」
ドロシーの手が、震えていた。
指が思うように動かない。力が入らない。
「……手が……」
「魔力の暴走の影響やろな。神経がちょっと混線しとる。焦らんでええ。
わいがついとる」
ラセルが、その手をやさしく両手で包んだ。
ドロシーは、かすかに頷いた。
「ありがとう、ラセル……」
風が、また草を揺らした。
ドロシーの旅が、本当の意味で始まるのは──このときからだった。
──トトを探さないと。
その言葉が唇からこぼれた瞬間、
ドロシーは自分の“目的”に輪郭ができた気がした。
「……せやな。それが、君の旅のはじまりや」
ラセルの声は、変わらずやさしい。
彼がそっと差し出した手を見て、ドロシーは右手を動かそうとした──が、
「……っ」
やはり、思うように動かなかった。
けれど──
「ええんや、無理せんで。わいが支える」
ラセルが何気なく、自然な動作でドロシーの背中に手を添える。
その手つきがあまりにも落ち着いていて、情けなさよりも安心が勝った。
「……ありがと」
体を起こすだけでもまだ辛かったけれど、ラセルの手は的確に重心を支えてくれた。
彼の腕の中で、自分がようやく“今ここにいる”と実感できる。
風が、草原を通り抜けていく。
空は夕暮れに差しかかっていた。
「今日のところは、この近くで休もか。君も、まだ本調子やないしな」
「うん……そうだね。ちょっと、まだ歩くのは……」
ラセルは頷くと、近くの木陰を見やった。
「風が遮られる場所や。あの辺に焚き火を起こそ。夜は冷えるで」
「火……?」
「せや。ちょっと目を離すで、寝転んどき」
そう言ってラセルは立ち上がり、手早く枯れ枝を集め始めた。
その後ろ姿を眺めながら、ドロシーは改めて右手を見つめる。
火種の光が、胸の奥でふっと揺れた。
やがて火が起き、炎が柔らかく辺りを照らす。
「湯を沸かしといた。草の根の煎じ汁やけど、体にはええ」
ラセルが土器の器を差し出してくれる。
ドロシーは受け取ろうとして──ふと手を引いた。
「……やっぱり、無理だ」
「任せとき」
ラセルは、何でもないように、湯をすくってドロシーの口元に運んでくれた。
少し熱めの湯が、のどを通るたび、意識がゆっくり澄んでいく。
「……こうやって飲ませてもらうの、ちょっと恥ずかしいかも」
「ええやないか。わいは慣れとる。昔、祖父さんの介抱してたことあったさかい」
炎が小さく揺れる。
星がひとつ、空に浮かび始めていた。
「……ラセル」
「ん?」
「明日から……ちゃんと歩けるかな。トトを探しに行けるかな」
「行ける。わいが背中貸したる。君が行きたいなら、どこへでも連れてく」
ドロシーは顔を伏せた。
「……ありがとう。ほんとに、君がいてくれてよかった」
ラセルはそれに答えず──黙って隣に腰を下ろした。
そして、そっと肩を寄せる。
「寒くないか?」
「……少しだけ」
それだけで、ラセルの腕がドロシーの肩を包む。
寄り添った体に、心が揺れる。
言葉にするにはまだ早く、でも、言わなければ消えてしまいそうな何か。
ドロシーはそっと目を閉じた。
──明日から、ラセルと一緒に探そう。
あの日の風にさらわれた、“大切な誰か”を。
そして、もう一度──帰る場所を見つけるために。
《第15話・完》