第1章 第十六話
🕑 Added 2025-05-27 13:43:16 +0000 UTC
第1章「目覚めの草原」
第16話「旅のはじまり、風を背にして」
──草の音が、静かに揺れていた。
夜が明けきらぬ空の下、焚き火の余熱がまだわずかに残っている。
灰色に冷えた大地の上で、ドロシーは目を覚ました。
火種の明滅は穏やかで、体の奥にあった熱も、だいぶ引いている。
頭の中もずいぶんとすっきりしていた。
ラセルの上着が、自分の体にかけられていた。
少し大きくて、ごわつくけれど──温かい。
右手は、やはりまだ動かない。
けれど、そのことに昨日ほどの不安はなかった。
「……おはよう」
かすれた声でつぶやくと、すぐそばから応える声がした。
「起きたか、ドロシーちゃん。熱は?」
「だいぶ、下がったみたい」
ラセルは昨夜と同じように、静かな笑みを浮かべていた。
火の消えた焚き火を崩しながら、湯を沸かしているらしかった。
「……今日は、どこまで行くの?」
ドロシーの問いに、ラセルは少し顎に手を添えて考えた。
「決まっとらん。けど、風の道を避けつつ丘の向こう側まで出ようかと思っとる。
バステの遺構の南側は人の通りもあるし、安全な場所がいくつかある」
「そっか……」
ドロシーは、火種を包み込むように左手で触れた。
「……トカゲの子が教えてくれたのも、あの“遺構”のことだったんだよね」
「せや。地図に描かれとったやつな。
けど、その先については話されとらんかったやろ?」
「……うん」
しばらく沈黙があったのち、ドロシーはぽつりと告げた。
「……だったら、ぼく……ラセルについていっても、いい?」
ラセルは火の面倒を見ながら、ゆっくりと顔を向ける。
「もちろんや。どこまででも連れてったる。
“トト”の手がかりも、きっと何か見つかるやろ」
ドロシーはその言葉に、小さく頷いた。
「ありがとう……」
右手はまだ、動かない。
それでも、自分が“行きたい”と思える道がある。
それが、今のドロシーにとっては十分だった。
草原を抜ける道は、想像以上に険しかった。
夜露で滑りやすくなった丘の斜面、足元をすくうような柔らかい草の根。
陽は昇っても、風は止まず、ときおり身体ごと押し戻されそうになる。
ドロシーはそのたび、ラセルの肩に手をかけて、呼吸を整えていた。
「……はあ……まだ、こんなに草原が広かったんだね」
「せやな。空は広いけど、足場は狭い。
特に、いまの君の足やと、こっちが見てへん隙に転びかねん」
「……ちゃんと気をつけるよ。
でも……こうして君がいると、安心する」
それは本心だった。
右手が使えないということは、
「体を支える手が一本分足りない」だけではない。
荷物が持てない。バランスがとれない。ちょっとした起伏が障害になる。
そんな状態で、ラセルは一言も責めなかった。
一度も「無理をするな」なんて突き放し方をせず、
ただ傍に立ち、自然な流れで補ってくれた。
──その姿が、どこか夢の中の“魔導師”に重なって見えた。
丘を越えると、小さな林があった。
その中で、ラセルが木の根元に腰を下ろし、手招きする。
「ちょっと休憩しよか。地図を見ると、村までは──いや、いや、今日は“定まった村”はないんやったな」
「……うん。でも、とりあえず丘の先まで行ってみよう?」
「そうしよ」
腰を下ろした瞬間、ふわりと草の香りがした。
朝露の残り香と、ラセルの汗の匂いと、火種の微かなぬくもり。
「はい、これ。干した根っこやけど、噛むと口が潤うで」
差し出された小さな布包みの中には、刻んだ薬草の茎。
ドロシーは左手で一片取り、そっと口に含んだ。
「……ちょっと、苦いけど……すっきりする味」
「昔の旅人は、こういうのだけで半日歩いたらしいで」
ふたりの間に沈黙が落ちた。けれど、それは気まずさではなかった。
風が、木の葉を揺らす音だけが耳に心地よい。
「……ラセル」
「ん?」
「……ぼく、今こうして旅してるのが、ちょっと不思議に感じるときがある。
夢の中みたいに、どこか現実じゃないような──
でも、君とこうしてると、なんか……現実に引き戻される」
その言葉を受けて、ラセルは少しだけ姿勢を直し、
ドロシーの肩のあたりにそっと手を添えた。
「現実ってのは、風みたいに揺れるもんや。
名前が残っとる限り、今ここにおるのは確かやで」
「……うん」
その手の温もりが、じわりと染み込んでくる。
ドロシーはふと、そのままラセルの胸元に身体を預けた。
昨夜と同じように──けれど、今度は自分から。
ラセルは何も言わず、すぐにその肩を軽く抱いた。
「……まだ、右手が動かないのがちょっと……悔しい」
「ええよ。動かんでも、感じられるなら、それで十分や」
ラセルの声は低く、静かで、どこか遠くを見るようだった。
そのまま、抱く腕にほんの少しだけ力がこもった。
──その腕の強さに、ドロシーは軽く震えた。
風が止んだ。音がすべて、遠のいたような気がした。
「……ラセル」
「……ん」
「……ありがとう。ほんとに……」
言葉じゃ足りない。
けれど、言わなきゃ、なにも伝わらない気がした。
だから、代わりに──そっと額をラセルの首筋にあずける。
その仕草に、ラセルの呼吸がほんの少しだけ乱れた。
──一線を越えるには、まだ早い。
けれど、気持ちは確かにそこへ向かっている。
風がまた、そっと吹いた。
ふたりの影が重なり、ゆっくりと揺れた。
《第16話・完》